記憶を辿り思うこと
人間の記憶はいつ頃から残っているのか、ふと思います。
私の一番古い思い出は、乳母車の中から見上げた青空を背景にした父の診療所の看護師さんの笑顔でしたが、ほんとだったのかしら?後で記憶をぬりかえていたのかもしれませんね。
古い記憶は断片的に今も残っています。診療所にあったクドールの手洗い洗面台とその消毒液の匂い、薬の計量天秤、受付にあった壁掛け式の電話。たしかハンドルを回すと交換手(佐用町の電話局の)に繋がって、そこで回線を相手につないでもらう。ほんとアナログですね。交換手には会話はまる聞こえで会話に割って入れた。今で言うチャットですかね。
それからダイヤル式の黒電話になり、プッシュボタンのカラー電話、それから携帯の時代になりました。
私が医局から最初に派遣された病院で渡されたのがポケベルという物でした。呼び出しベルがなるのだけれど、誰が呼んでいでるのか判からないのでとりあえず詰所に連絡をするというものでした。そのうち呼び出し先が表示される新型がでて随分と進歩したと思いましたが。話が随分とそれました。
今回は昔の記憶をたどり病院の変遷をとの原稿依頼でした。
しかし、私が病院に帰ってきたのは平成の初めでしたから昭和45年の華やかな開業式典には参列しましたが、それまでの事はもっと古くからおられるスッタフに聞かないとわかりません。
私の覚えているのは病院駐車場の一角に病院直営の外食レストランがあり、2階にも食堂があって、カレーとかうどんとか出していたのくらいです。(食べる事は記憶にのこりますね)
私が赴任した時には開院当初の先生方もほぼ病院を去られていまして創立メンバーの二代目は亡くなられた松本禄郎先生と私だけでした。病院の体制も古いままで時代に合いませんでしたから私が理事長、故松本先生が院長という二人体制で病院改革に取り組みました。
最初の頃の大きな出来事は平成8年の病院の全面改装と各科、各部署の配置転換をして、新たにレントゲン棟、二階は訪問看護ステーション(今は居宅事業所等になっています)を作くった事です。改装の大きな費用は負担になりましたが、病院が綺麗になると患者さんから喜ばれ受診される方も増えてきましました。その頃は医局からの医師派遣も多くあり、私の外科のOPの件数も増えていた頃でした。当院で初めての腹腔鏡のOPも始めましたし中心静脈栄養も全盛期だったと思います。
次に大きな出来事は臨床医師研修制度改革でした。これは地方の小さな病院にとっては大変困った出来事でした。大学の医局に残る医師が減り地方の病院への医師派遣が困難になり、次々と内科・外科の常勤医師派遣が減ってしまったことです。(今も状況は好転していませんね)
その後病院の隣にあった県の特養の移転に伴い後を町から借り受けて平成13年に全面改装し新たに長期療養型病院として記念病院をオープンさせました。(今はきねん介護医療院)
この頃から急性期医療だけではなく介護にも軸足を移すようにしていったと思います。
平成20年小規模多機能のやすらぎの家さよう、平成27年にサ高住ヒルハウスひとは、平成29年のリバーサイドなかやすもその一環です。
今は訪問看護ステーションに加えてヘルパーステーションや居宅介護事業所、通所のデーケアーサービスのリハクラブふたばなど在宅の支援にも力を入れています。
小子高齢化に対応して病院のありかたも変わる必要があったのでした。